ISIS日本人人質事件から見る責任論


イスラム国による日本人2人の殺害予告動画が公開されました。非常に政治的な要素が強いため投稿は控えようと思ってはおりましたが、今カフェでその件について話し合うご婦人方のお話が耳に入り、憤ってしまったため少し書きます。お話の内容は主に、人質となった日本人の責任に関するものでした。ざっと言うとこんな感じ。

・危険だって分かってるところに迂闊に行ったんだから自己責任よ。殺されても仕方ない。考えが甘い。
・そういう人たちに私たちが払ってる税金から身代金なんか払う必要なんかないわよ。
・身勝手な行動が人に迷惑かけてる。そういう人には、悪いけど同情出来ないわ。

と、いうようなもの。
このような会話が繰り返し強調されています。これを聞いて、どう感じるでしょうか。
私は、理論的には納得し、感情的にはムカつきました。
なるほど、確かに人質となったお二人は、ISISの支配下にある地域に足を踏み入れることは、大変な危険が伴うことは当然認識していたでしょう。そして身柄を拘束されれば、これまで殺害予告動画が公開された後に殺害されたアメリカ人やイギリス人と同じような運命を辿ることも分かっていたでしょう。全くもって、今回のような結果は自己責任と言わざるを得ません。

しかしなんでしょうか、ご婦人の会話を聞いて湧き出るこのムカつく私の感情は。
それはおそらく、ご婦人の「慈悲の不在」にあるのだと思います。
当然のことですが、誰がどう考えるかは自由です。表現も言論もその自由は憲法によって保障されているものです。
先に述べたように、ご婦人のご意見については、私もごもっともだと思います。しかし、そこにはどうも人間に対する、それも同じ日本人に対する慈悲ある温かい心を感じられません。

報道によれば、フリージャーナリストの後藤健二氏は、内戦や紛争地域で苦しむ子供や一般市民が直面している現状を世界に報道・発信することを使命として、深みのある取材・報道を行っていたそうです。それは、紛争に苦しむ人々に寄り添う同苦の心、慈悲の真心から発する行動だったと察します。だからこそ、このような結果になることも覚悟した上で、自身の信念と使命感に突き動かされ、シリアへ赴いたのではないでしょうか。

繰り返しますが、彼らが置かれた状況は間違いなく自己責任に基づいた結果です。また、生命の尊厳を脅かすテロ集団には決して屈さないとの意味から、身代金を支払うことは出来ないと私も考えます。
しかし、最も尊極である生命論に勝って責任論が重視される議論には、同意は決してできません。責任について論じる前に、生命を脅かされた状況に置かれたご本人、そして日本で神仏にすがるように無事を祈るご家族や関係者の方々に対して、想いを馳せることが出来るかどうか。それこそが、人の魅力の真価が問われる部分ではないでしょうか。
さらに言えば、今最も憎むべきは、神の名の下に人命を軽々しく奪い去るISISの連中です。それは、神への冒涜であり、人類への冒涜です。

今回の人質事件に限らず、我々の身近や社会全体でも、こうした「責任至上主義」が蔓延ってはいないでしょうか?もしそうだとすれば、憂うべきことだと思います。
自己責任なんて、当然のことです。基本的には、人がどうこういうものではありません。自己の責任の下に、悪しき結果を招いたのであれば、自己の名において責任をとる。しかし、事の後から責任の所在をみんなして探し、なすりつけ合うような社会に、集団に、そして個々の心に、発展と成長はありません。
理想論に過ぎないと揶揄されかねませんが、それでも、他者の生命と人格を最大に尊重し、認め合い、共に発展・成長させようとする心の在り方が、さらに問われていると感じます。
少なくとも、私はそうした人間でありたいと自分に言い聞かせます。「我以外皆師匠」の心を忘れずに。

人質となっている後藤健二さん、湯川遥菜さんのご無事を心から祈ります。

Tokyo 2020!! 心から喜ぼうよ

2020年夏季オリンピックパラリンピックの開催決定、本当におめでとうございます!!生中継見ていて、久しぶりに日本国民として、心から感動しました。

 

バブル崩壊以降、失われた20年とも言われていますが、これを最大の契機ととらえて国民一人一人が、再び日本人としての誇りを感じれる社会となればと思います。

 

ただ、中にはオリンピック開催決定を、ネガティブな側面から俯瞰的にご覧になった方も多数いらっしゃるようです。見込まれる1.5~3兆円の経済効果では日本経済の抜本的改革にはいたらないからやっても無駄、震災復興などの諸問題を抱えたままの状況では素直に喜べない、などのご意見です。

 

もちろん批判的・建設的意見は大変重要です。

 

しかし、オリンピックを自国で開催する意味とは本質的に何なのでしょうか。

 

それは、国民の一人一人が、国民として素直に喜び合えるかどうか、という簡潔なところにあるのではないか、と思えます。つまり、あなた自身が、ウキウキしてるのか、ワクワクしてるのか。

 

社会保障を含めた経済対策や復興対策の問題は大変重要です。しかし、政治を、経済を、教育を、国家を、動かす根本的な原動力は、そういう一人一人のウキウキ・ワクワクにあります。つまるところ「人の心」です。むしろそこにしかありません。

 

震災復興が進まないから喜べないのではありません。

あなたが喜べないから、震災復興が進まないのです。

五輪で人に期待や希望は与えれないというあなた。

それはあなたが人に希望を与える気がないのです。

 

これは確かに精神論的な議論ですが、僕はこの祝祭の決定に、喜べないあなたを憂うのです。

あらゆる機会を、自身にとって、自国にとっての「好機」ととらえられないことは、非常にもったいない人生です。

やるべき対策は、必ず堅実堅固に進めねばなりません。

政府の絶対的使命です。

しかしそれらはあくまで手段です。

根本目的のために、自身の心を揺さぶりながら、進みませんか?

共に皆で。